陰鬱な感情を抱えまたまま同じ店に出入りして酒を飲むことが
いつの間にか習慣になっていた。
相変わらず自分にとって都合の良い仕事は入ってこない。
そんな晩秋のある夜、その店のマスターから仕事をしないか、と持ちかけられる。
飄々とした雰囲気のマスターは服部という名字だけを知る程度の付き合いで、
店以外で2、3度飲んだことはある。
が、つかみ所のない男だ。
その長い前髪で目が見えないせいだろうか?
紙切れに箇条書きにされた案件を読む。
「おんしが直接やればいいろう」
「俺が直接知ってはいけない仕事なんだと。それに俺ァ、機械類は管轄外だ」
「ずいぶんとアナログな方法を指定じゃなぁ…」
「そいつ曰くアナログの方が情報の流出が防げるんだと。よくわかんねぇ理論だがゲン担ぎみたいなもんだろ」
と指示されたのはとある廃墟のような建物の一室で川を挟んで
対岸に見えるある家を監視し、ビデオとフィルムに残す。
盗聴器から音声を拾い、備え付けのオーディオのテープに録ること。
ただし、聞いてはいけない。
というもの。
ビデオカメラ、カメラは三脚で固定。カメラのレンズは自由に変えてよいとのこと。
フィルムは現像せずに提出。必ず撮影したものすべてを提出すること。
ビデオと音声カセットはセロファンで新品のタバコの様に封をして提出。
途中誰かが開けたら分かる様に。
鉄のテーブルの上に封をする為の機械が置かれている。
用意周到じゃな…
初日:
伝えられた時間の少し前に張り込み時間つぶしに新聞を読む。
一面は大物政治家の献金疑惑騒動。
●15:15
指定の時間にレンズを覗くと、黒いロングコート、背中に1m強のケースを担ぎ
サングラス、分厚いヘッドフォンをした男が指示された部屋に入って来た。
監視しろ、と命を受けている人物像とぴったり合う。
帰宅後 黒いコートを脱ぎ、着物に着替える習慣があるらしい。
覗かれているとも知らず服を大胆に脱ぎ露になった背中に少したじろく、が、
(男の背中なんか見ても…)と思い直す。
そして着流しを羽織る。着慣れた様子。
帯を締める所作が美しい男だと思った。
そしてサングラスとヘッドホンは外さぬままである。
●15:30
16時半過ぎまで床に座り込み窓辺から川を眺めながら三味線を弾く。
(担いでいたケースの中身は三味線じゃったか)
辺りが暗くなる頃ブラインドが下げられ、部屋に電気が付く。
撮影はここまでだ。
とりあえず15時過ぎからブラインドが下がるまでの数時間きっちり監視しなくてはならない。
盗聴までする必要あるのかと思いつつ。
(あぁ、万が一電話がかかって来た時の会話が目的か…)
今日の分のビデオ、テープ、フィルムをまとめて梱包する。
これから…こんな日々なのだ。
はたしていつまで続くのか。期限は決まって無い。
依頼主からもういい、というまで提出し続けなければいけないらしい。
確かに本業は波に乗ってはいなかった。
パパラッチなんて金にならん。わしは撮りたい物だけ撮りたい。
しかし背に腹は変えられない。
数時間で報酬がいい仕事だと流してもらった仕事だ。
(それにしても胡散臭すぎる。覗きじゃろうが…こりゃ…)
深夜に届けに行った荷物を見て服部が驚く。
「なんだよ、こりゃ俺は絶対見れない様になってるじゃねぇか」
タバコ包装に驚いた様子だった。
というかこいつ興味津津じゃぁなかか。
面倒な仕事を受けてしまったもんじゃ
ところがどうしたものか、2,3日を過ぎた辺りからこの無機質な監視部屋がなかなか居心地がよくなってきた。
冷蔵庫には大量のカラーフィルム、テープに加え硬水のミネラルウォーターが仲間入りした。
指定時間外にも入り浸り、使えない風呂場に暗幕を敷き詰め勝手に暗室を作った。
5、6日目ぐらいから対象人物の男の背中を見るのも一つの楽しみになっていることに気がついた。
自然とシャッターを切る回数が増え、提出するカラーフィルムの本数が増えた。
10日目:
今日の新聞の一面は政治家要人の射殺で埋められている。
この前に献金疑惑にかかわった人物だとか。
目撃情報があるとかないとか。
時間なのでレンズをのぞく。
●15:20
対象人物、いつもの時間に帰宅。
今日は革手袋をしている。
ガラス窓越しに川を眺め、口で指先を引っ張りながら外し床に放り投げる。
その後いつもの様に着流しになる。
相変わらす背中の美しい男だ。
コートから着物になるわずかな隙間に無駄にシャッターを切ってしまう。
シャッタースピードを上げ、一挙一動を切り取るように。
●15:30
16時半過ぎまで必ず床に座り込み窓辺から川を眺めながら三味線を弾く。
辺りが薄暗くなる頃ブラインドが下げられ、部屋に電気が付く。
●17:00
契約違反と知りつつ、込めておいたモノクロフィルムを1本、自分用に現像してしまった。
現像液の中で徐々に浮かび上がってくる美しい背筋に鳥肌が立ち
酢酸の匂い立ちこめる暗室の中で自慰をした。
15日目:
今日の新聞の一面は先日射殺された要人の秘書の自殺だった。
徐々に冷えていく秋の終わり。
坂本は監視部屋に入るなり、コンクリート打ちっぱなしの部屋の冷え込みように驚く。
ポケットに新聞と手を突っ込んだままカメラを覗く。
●15:13
対象人物、いつもの時間に帰宅。
いつものように着替えるかと思いきや着替えず。
…?
もう一人、誰かが居る…?
窓際に歩む。会話をしているようだ。
窓の外の川を眺めている。時折口元が動く。
会話は続いているらしい。
窓枠の四隅の足下あたりからガラスがうっすら曇り始める。結露か。
こちらの部屋の冷え込みとは逆にあの部屋は温まっていくのだろう。
●16:00
いつもなら三味線を弾いている時間だ。
その時、
窓の外を眺めていた男が背後から何らかの衝撃を受け、そのままガラス窓に手をついた。
殴られたか?背後から刺されたか…?
攻撃をした相手の姿は、ここからは影が濃く顔がわからない。
その場から駆け出して助けに行くでもなく、通報するでも無く
じっとレンズを覗き続けることしかできない自分に
恐ろしさと共に湧きあがる興奮。
夢中で覗き込みシャッターを切る。
押さえつけられた男は暴れる訳でも抵抗する訳でもなく
ガラス窓に腕をついて体を支えている
どうやら命に関わることをされた訳ではないらしい…が
そのまま二の腕をガラスにすりつけ、その腕の上に額を押し当てている。
まるで壁に立ったまま伏して泣いているかのような格好。
しかし透明なガラスを壁にして伏しても、
こちら側から見れば一生懸命何かを堪えるような表情はまるわかりだ。
まだ結露が上ってきていない窓上部にも一点ばかり蒸気で曇る部分が現れた。
その男の口のあたり。
固く結んだ口元が緩んでいくその延長上に、
始めは白くフッと曇ってはスッと消える白い円が現れたが
徐々に断続的に白く、丸く、曇り始めた。
…息が…上がっている…?
恐らく、外気で冷えたガラスに熱い呼吸が吐きつけられているのだろう…
何をされているかはもう…明らかだ。
構えたカメラはシャッターを切ることを忘れて
情事を覗く為の単なる望遠鏡になった。
四隅から立ちのぼった結露は窓の下半分を白く曇らせた。
よって下半身は見えぬ。
しかし見えぬことが自分を煽っているのはよくわかった。
はじめ、ガラスに力をこめて当てられていた拳は
背後からの律動に耐えかね徐々に力なく開いていく。
手のひらが窓ガラスにべったりと貼り付いた。
プレパラートに挟まれた観察対象物の様にガラスに肌が押し潰れている。
それを顕微鏡で覗き込んでいる気分。
男は立っているのも限界といった様子になっていく
手を貼り付けたまま、ずるずる下へ下へと沈んでいく。
曇った窓ガラスを引っ掻くような状態になり結露が拭われていく。
引っ掻いた軌道はしっかり残ったものの、その隙間からでは中の様子はわからない。
拭われた結露が再び曇る頃には夕闇に包まれ
対岸を見ることは不可能になった。
●18:00
この時間になってもブラインドが下げられ電気が付くことはなかった。
回していたビデオを再生しようかとも思ったが。ためらった。
●21:14
急に 盗聴器の存在を思い出した。
急いでヘッドホン端子を抜き取りスピーカーから録音された音声を再生する。
初めて確認する男の声は…ゆっくりと落ち着いた様子の、低音で定温な声。
耳になじむ。
今日訪れたであろう相手の声は拾っておらず、
会話の脈絡はまったく分からない。
おそらく盗聴器は窓際にある。
そしてその盗聴器は
ギュギュルー…と汗ばんだ手がガラスを擦る音も、
男の喘ぎ声も
しっかりと拾っていた。
再生を流したまま、いつの間にか眠ってしまった。
そして自分がその男を後ろから犯す夢を見た。
目の前に現れた美しい背中に何度も射精する夢を見た。
16日目
●4:55
深夜に届けられなかった荷物を渡しにいく。
服部が店を閉め出てくる所を裏口で待ち伏せしている間に、
郵便受けに差し込まれていた朝刊を勝手に読む。
一面は企業の取締役の射殺、ライフルを担いだ人物が現場からバイクで去ったという目撃情報。
う…ん…?最近は物騒じゃのぅ…連続射殺事件として捜査が始まったとある。
ガチャリ…と裏口が開き、服部が顔を出す。
「おい…お前約束通り深夜来いよ…俺ごまかすの大変だったんだぞ…」
と文句を言われホレと封書を一枚渡される。
中身を確認。
「10日目のフィルムがいつもより少ない。全て提出しているか」
冷や汗が流れた。迂闊だった。
一本だけモノクロにしてしまった場面がしっかりバレている。
それまでの9日目まで無意識にシャッターを切っていたのだろう。
あのコートから着流しになる数秒間。
となると15日目の分も…いつもより少ない…
何せ途中からシャッターを切るのを放棄していたのだから…。
「報酬がいい分、今回の件はちょっと…な…。もうすぐ終了らしいがきっちりやんねぇとまずいことになりそうだ」
「おんし…依頼主は知っちょるのかぇ?」
「依頼を受けた初めの1度だけ会った…片目を眼帯していて…
この荷物の受け渡しはコインロッカーでな、それ以来顔をあわせてはいない」
なんだか嫌な予感がする。それは服部も一緒らしい。
気をつけろよ、と言いながらお互い店から自宅に帰る。
4日ぶりに戻った自宅の冷蔵庫の中でチーズがかびていた。
ますます嫌な予感。
●13:30
監視部屋到着。いつもよりかなり早い時間だ。
ビデオテープをカメラにセットする。
ピントを確認するため覗き込んだ先に…
既にあの男が窓辺に立っていた。
ちょっと驚いた。指定の時間ではないがすぐに録画を始める。
男は黒いコートのまま、背中に例の三味線を背負い、片手にペットボトルを持っていた。
ガラス窓をゆっくりと開け、ペットボトルの中身を捨てる。
そのまま、ここからでは確認の出来ない位置へ…出かけてしまったのか…
数分後、携帯が震えた。
メールが届いている。覚えの無いアドレス。
「15日目のフィルムが異常に少ない。何があった」
口から心臓が飛び出すかと思った。
どうしてわしのアドレスがばれちょる…!もしや…服部が…
と、携帯の着歴から震える指で服部へ電話を入れる、すぐにつながった、が、
「おい、おんし大丈夫かぇ…どうなっちょるんじゃ!」
「坂本かっ!?ケータイぶっ壊して今すぐそこから逃げろっ!あっ…」
ブチッ!ツーツーツー
どうなっちょるんじゃ…!
握りしめた携帯をとりあえずコンクリートの床に叩き付けた。
カッシャンと音がして液晶の破片が飛び散る。
ふと、窓の外を見ると、再び黒いコートのあの男が窓際にいた…
片手にビール瓶とグラスを持っている。
すぐ逃げろ、と言われたはずなのに反射的にレンズを覗き込む。
すると…
合うはずも無い視線がレンズ越しに合った。
いや、サングラス越しに視線など分からないのだが、確かに合った、そう感じた。
つまり、こちらの存在が気づかれたということだ…
呆然とする。
その男はじっとこちらを見つめたまま佇んでいる。
そっとビール瓶とコップを床に置き、
三味線のケースを開けて何やらごそごそとしている。
取り出したのは三味線でなく…ライフルだった
「!!!」
ドンドンドンドンン!!!!!
ドアがけたたましく鳴る。
「おい!ここを開けろ!!」
という声と共にドアがいきなり蹴破られた。
くわえ煙草に銃を構えた男が入ってくる。
「おいおい…なんだこの変態部屋はよ…おい警察だ、不法侵入で逮捕する」
「はぁ?え?ちょ、ちょっと待っとーせ!!この部屋、狙撃されるかもしれんろー!」
「あぁ?狙撃?はっ!どこから?どうやって?」
警察、と名乗った男はニヤリと笑って首を傾げる。
「そんなこといっちょるとおお!」
坂本は相手を静止しカメラを覗き込んだ。
と、そこに映ったものは。
監視していた家の川沿いに機動隊が取り囲んでいた。
そしてあの、背中の美しい男は…
最初こそライフルを構えたが状況を察したらしい。
銃を下ろした。
相変わらず目が合っている。確かにこちらを向いている。
口元がわずかに動く…何かを言葉を発した?
そしてスーッと微笑むと、足下に置いてあったビール瓶を手にした。
頭上に掲げたかと思うと
床に向かって叩き付けた。思いっきり割れて飛び散る瓶。
床にぶちまけられる液体は…
ゴォォオオ!!!
割れた拍子に部屋中を炎が包む。
火炎瓶だった。
川沿いにいた機動隊は侵入直前の出来事に立ち尽くし、
銜え煙草の刑事は裸眼で対岸の出来事を確認しチっと舌打ちをして
すぐに消防に電話した。
わしは…ただ燃えさかる部屋を眺めるしか出来なかった。